2010年01月10日

真田幸村、奮戦の謎

真田幸村、「絶望からの蘇生」の謎
緑濃く、草深い土地。

無腰同然の一党がここへ来たときは、まだまだ意気軒高で、廃屋となっていた百姓家を、力を合わせて普請し、何とか住めるようにしていたし、近辺にも小屋をいくつか建てていた。だから、今でも雨露をしのぐには、ことさら困ってはいない。

だが、せめてもの情けで、猫の額ほどの耕作地を持つことは許されていたものの、長年を通して、銭と糧食は慢性的に欠乏していた。そして、いつしか、微かな望みすら失われていった。

失意の父は、すでにない。

今までの、気の遠くなるような年月、この土地で、いったい何をしてきたのだろうか。30歳代の、壮んな歳月だったのに、十幾年、来る日も来る日も・・・・・・。

かつての壮健さも、当然のごとく失われて久しい。このまま朽ち果ててしまうのか。

真田幸村の九度山配流時代の生活を明らかにできる、確かな史料はほとんど残っていない。だが、困窮、疲弊、絶望を、国許の縁者に訴える、侘びしき書状はある。

我々なとも去年より俄ニとしより、事の外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、ひけなともくろきハあまり無之候
(慶長年間、2月8日付、小山田茂誠宛書状<岡本文書>

「私なども去年より、急に年をとり、ことのほか病気になりました。歯も抜けました。ひげなども黒いところはあまりありません」(「真田幸村」山村竜也)

満14年間、つまり、30歳代から40歳代という、人生の最盛期を全面的に潰されてしまい、幸村は朽ち果てる寸前だったのだろう。

大坂決起が、心身を復活させたことは推測できるのだが、とはいえ、不思議なことがあって、筆者などは理解できない。

有能を実地に移したのは、父・昌幸のほうで、幸村については、後付けの話が多く、リアルタイムで、幸村の有能さが認められる記録に乏しい。つまり、実戦経験がほとんど無いに等しいのだ。史学的に確認できるのは、わずかに関ヶ原合戦時、父の下知のもとで戦った上田戦ぐらい。

30歳代に入って、父と共にこれから、というときに、流人生活に入ってしまったこと、天下が定まって、戦がなくなってしまったこと、これらが原因で、実戦の機会が失われてしまった、ということなのだろう。

挙句の果てに、最盛期を無為にした14年に及ぶ流人生活での、心身の弛緩、衰微、老衰の絶望的状況。

この幸村と、その直後の大坂戦陣で、天下を瞠目させた、知略、勇戦、鬼神の如き名将・幸村、日本一のつわものと、敵をして絶賛させた幸村と、いったい、どうつながるのか。

想像や伝説ではなく、このあたりを理解させるような史的研究はないものだろうか。
ラベル:真田幸村
posted by somo at 12:54| 戦国メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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