2010年08月09日

真田幸村 哀切の死闘

真田幸村、討死の覚悟

下の古文書2通は、幸村自筆の書状で、日付と内容から、大坂冬の陣と夏の陣の間の時期、慶長20年の2月・3月、のものと判断される。


父子事御安事、作兵衛方迄恩尋尤候、我等籠城之上ハ、必死に相極候間、此世にて面談ハ有之間敷候、何事もすへこと心に不叶き候共、御見捨無之やうに頼入候、委者惣右可申候、謹言
  ニ月十日     真左衛門佐(花押)
   石合十蔵殿


この、石合十蔵への書中で幸村は、『自分は、嫡男・大助幸昌とともに、城を枕にしての討死を決めているので、もはや生きてお会いすることはできません』と、武士の覚悟を述べ、さらに、それゆえに、(石合十蔵に)嫁いだ(自身の長女)「すえ」について、『ふつつか者だが、すえを、よろしくお願いします』と、大坂城内、休戦の陣中から、おのが長女の行く末を、信州・石合十蔵(長女の夫)に依頼している。


尚々、別帋ニ可申入候へとも、指儀無之候、又御使如存候、少用取乱申候、早々如此候、何も追而具申入候、以上

 遠路預御使札候、其元相替儀無之由、具承、致満足候、爰元おゐても無事ニ候、可御心安候、我等身上之儀、殿様御懇比も大かたの事ニはハ無之候へとも、萬気遣のみニて御座候、一日一日とくらし申候、面上ニならて委不得申候間、中々書中不具候、様子御使可申候、当年中も静ニ御座候者、何とそ仕、以面申承度存候、御床敷事山々ニて候、さためなき浮世ニて候へ者、一日さきハ不知こと候、我々事なとハ浮世にあるものとハおほしめし候ましく候、恐々謹言
  三月拾日     真左衛門佐
   小壱岐様
   同主膳殿       信繁(花押)
        御報


小山田茂誠と、息・小山田之知あての返書。茂誠は、幸村の義兄。
石合十蔵への書状から、1ヵ月後と推定される。さらにこれより1ヵ月半後には、夏の陣の開戦となる時期である。

ここから推測できることは、大坂城・豊臣家の当主、秀頼は、今こそ零落の一浪人とはいえ、真田の高い武名を負う幸村に期待するところ多く、好意的であること。また、それだけに豊臣家直臣らの嫉妬や、真田一族の多くが徳川方であること、などが主因なのか、幸村は、(自分の豊臣家への忠誠心や、徳川打倒の信念が周囲に理解されず)、(大坂城内での生活は)『万事に気を遣うばかりの環境』と、嘆いていることなどだ。

同時にここでも幸村は、『今後、平穏に推移するなら、ぜひにお会いして詳しく話したいが』、『定めなき浮世にて候へば、一日先のことはわかりません』『私ら親子のことなど、もはや、この世に在る者とはお思いにならないでください』と、親類縁者への切なる想い、さらには、討死を決意している哀しくも雄々しい胸の内をほのめかしている。

この二つの古文書(書状)から、幸村が討死を覚悟していたこと、すでに死処を定めていたことなどが、実証されている。

冬の陣・真田丸攻防戦で大活躍、徳川方を撃退したあとの休戦時、破格の条件で、徳川への引き抜き勧誘があったらしいが、幸村は、一寸たりとも、なびくことはなかったらしい。

真田家の来し方への想い、関ヶ原前哨の上田戦で、徳川の大軍を痛撃・翻弄しながらも、戦後、配所の九度山で、不遇の中に逝った父・昌幸への想い。

そして、奔騰すべき青年期を、あたら草むす九度山で、困窮・絶望の極みに費消した己への想い。

これら幾重もの想いを込め、戦国武士の生き様・死に様を体現すべき自分にとって、それを為す好機は、豊臣・徳川の、最後の決戦の今、今をおいて無し!

我が真田の御家は、兄・信之が継承済み、心残りなど、一寸たりとも無し。戦いまくり、もののふとして散華するのみ!

この絶好の機会、この世で再び無し。戦国乱世、最後の戦い也。己の生きた証しを世に刻印する、最後にして唯一の絶好機なり!!

幸村の、このころの心象を思うものの、その深甚なる想いを描き出すのは至難である。

知将猛将・真田幸村、もって瞑すべし、と言うしかない。
posted by somo at 21:04| 戦国メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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