2010年09月20日

濃姫夢幻2−信長メモ7

「濃姫」と「信長本妻」

信長に輿入れしたあとの濃姫の足跡が、確かな史料では、ほとんどない、より厳密に言えば、全くない、と言ってもよいほどだ。

晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、佐藤も十七人之内也
(『言継卿記』、永禄12年7月27日の条)

早旦弾正忠所へ罷出、於門前曾禮申之、しうとめの所へ禮に被行、彼門前迄同道、山上城可見物之由被申
(同史料、同年8月1日の条)

※『言継卿記』:公家の山科言継の日記。一級史料。永禄12年、岐阜に滞在、その時の記述。

晩頭に(宵、の意味だろう)、佐藤(錫携は、錫を携えての意か、名前か)が来て、一杯やった。そのとき、佐藤から言継が聞いた話、ということで、故・齋藤義龍の後家所有の壷を、信長が強く所望したため、騒動が生じた様子を、言継が、日記に描いている史料。

ここに「信長本妻兄弟女子十六人可為自害」の記述が出てくるのだが、この「信長本妻」は濃姫、と見ることは可能、なのだそうだ。

なぜならば、この内容は、言継が岐阜城下に滞在中の記録である。つまり美濃国中でのことであり、すでに岐阜城の信長の管理下にあるとはいえ、齋藤義龍の後家、つまり、旧齋藤一族や、その旧臣絡みの話であって、そこに「信長本妻兄弟女子十六人」「國衆」の語が出てくるからだ。

しかも、年月日は、信長が、美濃・齋藤氏を放逐、美濃を領国とした、わずか1年余のあとのこと。

さらには、そのあと、すぐ(5、6日後の8月1日の条)に、「しうとめ」の語が出てくる。この条も読めばわかるとおり、岐阜城内での話である。言継が、城下の宿所を出て、岐阜城の信長を訪問したところ、「信長は『しうとめの所へ禮に』行く、とのことだったので、城門まで同行した。この際、山上の天守閣見物を、信長から勧められた」といった意味だろう。

言継の描き様では、信長の「しうとめ」は、岐阜城から、さほど遠くないところに居住しているとの雰囲気が伝わってくる。やはり、美濃国内、しかも城下に居住、と見てもよいだろう。

となれば、この「しうとめ」は、前条、「信長本妻」の「母親」、「信長本妻」は、いわゆる「濃姫」、と見るのが、文脈からは自然だから、すると、永禄12年7〜8月1日の時点では、濃姫は生存していたと、考えることは可能だ。

ただし、これについては、疑問がないでもない。


「信長本妻」=「濃姫」の疑問点

1,「信長本妻兄弟女子十六人」の読みは、「信長本妻と、その兄弟女子」、なのか、それとも、 「信長本妻の、兄弟女子、なのか」、だ。

例えば、「信長本妻と、その兄弟女子」ならば、この壷騒動に、信長本妻も関わった、となって、信長本妻が、このとき、生きていたことになる。
  
これに対し、もしも、信長本妻「の」、兄弟女子、の意ならば、仮に信長本妻が、濃姫であれ誰であれ、「信長本妻」が、この時点で、生きていたか否かの判断はできない。信長本妻が、このとき世に無くとも、信長本妻の兄弟女子は生きていて、壷騒動に関わった、となるので。

この場合、信長本妻が世に無きこと、「故」と付すべきところを、言継が省略して記述したに過ぎない、ということになる。また、あとの記述の「しうとめ」にしても、この時点で、しうとめの娘である「信長本妻」が亡くなっていても、しうとめはしうとめ、である。

「の」と、「と」の用法から来る、文意の違い、この問題が、一つあるのである。

2,さらにもう一つの問題は、「信長本妻」にしろ、「しうとめ」にしろ、実際には誰なのか、不明でしかない、ということだ。

仮に、濃姫が早く没したあと、信長が、同じ美濃・齋藤氏に縁のある女をもらい、「本妻」としたかもしれず、仮に、その場合、この時点での「信長本妻」は、その女、ということにって、信長初婚の相手、濃姫ではないことにもなる。


何はともあれ、『言継卿記』のような一級史料が少な過ぎて、濃姫の結婚以後のことが実証できず、断定できるまでには至らない。生死・実態ともに、まるで不明、という現状は変わらないのだ。
posted by somo at 13:18| 信長メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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