2010年09月26日

濃姫夢幻4−信長メモ9

濃姫「早世」説の史料?

いわゆる濃姫の、生死、史実は不明のままで、信ずべき史料が、まるで無く、真相の史的確定は諦めるしかないようだ。

其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におわしける。容儀世に優れける故、信長、妾にせばやとて、龍興へ談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の為には姪なれば、其妻死後に遣わし難し、況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分、當家は齋藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。
(『濃陽諸士伝記』)

信長の舅(しゅうと)たる齋藤道三を倒して、美濃の国主になった齋藤義龍。彼もまた病死したが、上の記述の対象年代は、その後の、齋藤龍興の代の初めごろののことか。永禄4年5月中旬以降のこととなろう。

義龍の娘の馬場殿なる美姫を、信長が、側室として所望したことへの、美濃・齋藤の当主、龍興の反応。

「信長正妻の姪にあたる馬場殿を、信長の正妻の死後に、信長に贈るのは難しい(忍びない、の意か)。ましてや、側室としてなど・・・」の意味か。

要するに、ここでは、この時点で、信長の正妻(時期が時期なので、濃姫)が、すでにこの世に居ないことを前提の、龍興の言として、記述されている。これが、濃姫の早世を示唆しているというのだ。

確かにこの文脈からは、そう読めないこともない。


濃姫「早世」は、不明

しかし、だからといって、この史料の他の部分には、信長の正妻が亡くなったなどの記事は無い。これ以外の史料にも、もちろん、濃姫またはそれに該当する女が亡くなったとの記事など、無いようだ。

いわんや、この、『濃陽諸士伝記』は、史学上、史実確定に資する史料ではないとされて久しい(これより遅く成立の『美濃国諸旧記』も)。

したがって、この『濃陽諸士伝記』中の一文は、そう思えないこともないが、といった程度のものであって、史実究明のためには、ほとんど役に立たない。何ら、濃姫早世の史料的根拠にはならないのだ。

「通称・濃姫」が、生き続けていたことも、没したことも、それらを裏付ける「濃姫史料」は全く無い、といっても過言ではない。あとは、3級以下の古記録や軍記物、偽文書などを活用した小説もどきやテレビなどの、推測に推測を重ねた、想像=虚構の世界でしか、濃姫には逢えない。

濃姫の本名が、帰蝶、ということも、史料の質的にどうかと思われる『美濃国諸旧記』に出てくるくらいで、史学的実証はできず、史実とするのは困難である。

今後、濃姫についての新しい一級史料が発掘されることを、期待する以外に無い現状ではある。
posted by somo at 09:21| 信長メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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