2010年10月09日

真田幸村、家康本陣を二度まで斬り崩す

真田幸村、戦国武士道の精華



真田幸村と毛利勝永、どちらが、より活躍したか?と、一部では、幸村の活躍に、疑問を投げかける向きもある。

騎馬疾駆画[6].jpg


以下、この疑問を拙考する。

真田幸村「天王寺口の合戦」小考

<前提>
豊臣方の作戦構想は、真田幸村の、徳川家康討ち取りを目指す提言を、大野治長が容れたもので、明石守重隊が天王寺口に着陣し次第、合図とともに、真田隊はじめ、諸部隊が一斉に撃って出る。家康直統勢が迎撃防戦に浮き足立ったところへ、明石隊が迂回、側面から家康本陣を奇襲・突入、という内容だったらしい。

だが、徳川方・最前線の本多忠朝隊が功を焦って突出、これに毛利勝永隊が、たまらず応戦したため、明石隊着陣前に毛利隊が進撃開始という、いきなり予想外の事態となった。このため、真田隊も、既定の作戦を放棄、もはやこれまでとばかり、猛攻に出た。豊臣方の、家康討ち取り・形勢一挙逆転という、乾坤一擲の必勝作戦は、こうして一瞬のうちに崩れ去った。

ここに、国内戦史上最大の、いわゆる天王寺口の合戦が展開される。

真田隊は、松平忠直隊を撃破、さらには家康本陣を二度まで斬り崩し、家康を、あわやのところまで追い詰めるも、三度目の突撃の際、全員が玉砕し果てた。

夏の陣、5月7日布陣略図.JPGしかし、真田隊と毛利隊の戦闘経過、および戦果の様相には、それぞれ違いがあるようだ。そのため、一部では、真田よりも毛利のほうが活躍した、とも言われるのだが、その原因の一つには、下記の諸条件の存在があると思われる。両部隊の直面する条件に違いがあるので、比較はできにくく、どちらがどう、とは言いがたいものがある、というのが妥当なところか。

<諸条件>
(一)真田隊の前には、徳川方の、越前兵・松平忠直の大軍。

(ニ)毛利隊の前には、徳川方・小大名の、分立する小部隊が群集。

毛利隊の前の、小大名の諸部隊群が、本多忠朝の寄騎として組み込まれた、一団のものだとしても、大将・忠朝による指揮・威令の、配下諸大名部隊への浸透・徹底度は弱くなり、結局は「各自戦闘」となりがちだろう。

(三)そのためか、毛利隊は、諸大名の小部隊を相次ぎ撃砕し、大将首もあげつつ、家康本陣へ向けて進撃する(最終的には、戦況を見極めたのか、毛利勝永は戦線を離脱、防壁無き大坂城に撤収する)。

(四)一方、真田隊は、統一指揮下にある大軍・松平隊15000に激突、激闘突破し、家康本陣目指して真一文字に突進する。

(五)乱戦を斬り裂き、真田隊は、さらに家康直統の15000に突入、家康本陣を二度まで斬り崩す。
(ただし、家康直統の15000の前線兵力は、毛利隊迎撃にも出動していたはず)

(六)しかし、このあと、松平忠直の大軍が頽勢を挽回、真田隊めがけて逆襲に押し寄せ、あわせて、下高野街道沿いの徳川方諸部隊も、疲弊困憊した真田隊に殺到する。

<結論>
<前提>から<諸条件>までを勘案すれば、徳川諸部隊の性質と動向、豊臣方諸部隊内の、指揮・威令の徹底度のありかた等が、ほの見えてこないでもない。つまり、戦闘の進展と戦果の現れ方に、これらが影響していることは間違いないだろう。真田・毛利両部隊の戦闘と戦果の様相、その「違い」の原因が、このあたりに潜んでいる、とまでは考えられるのだ。そうなると、真田・毛利両部隊は、異なった環境と条件を負っているため、どちらが、より優れた活躍をしたかなどといった、比較は困難だし、いわんや、その判定など、あまり意味のあることとも思えない。

ただし、この合戦に参陣した徳川方の古文書・古記録の中には、敵でありながら、真田隊の活躍を特記するものが目立つ。中には、最高級の賛辞、「真田日本一の兵(つわもの)」とまで激賞する記録もあるほどだ。つまり、真田隊の戦闘が、さほどに徳川方を仰天・瞠目させ、強烈な印象を焼き付けるほどのものだったことは、史料上、間違いない、ということだ。さらに、この合戦から400年余、真田幸村は、史実・伝説を混じえながら、一貫して国民の憧れの的となってきた。これも間違いのないことだ。

大規模な混戦乱闘の修羅場となったため、敵味方諸部隊の「時系的動線」が不詳ではあるが、考察の基本素材は、上述したあたりにあるのだろう。

なお、幸村の一子・大助については、次のような話が伝わっている。

大助は、大坂落城時、父命によって、城内、豊臣秀頼のそば近くに、護衛として侍していた。が、「貴殿は豊臣譜代にあらず。よって、お供の必要はなし。早々に落ち延びられよ」との重臣の忠告を受けたものの、大助は、「父より、最期まで秀頼様のお供をするよう、言い付かっております」と応えるのみであった。そして、秀頼自刃の報を受けると、腹十文字にかっさばいて、秀頼に殉じた。

真田大助幸昌、このとき、13歳とも、14歳とも、あるいは16歳ともいう。

あの父にして、この子あり。乱世の終結を告げる最後の決戦に、父子一体となって真っ赤な花を咲かせ、そして一瞬のうちに散った、戦国武士道の精華であった。
posted by somo at 02:14| 戦国メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
RDF Site Summary
RSS 2.0
QRコード
昭和少年つぶやきぐさ
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。