2007年04月19日

源平池、七里ヶ浜、稲村ヶ崎

『七里ヶ浜の哀歌』

古都・鎌倉の史跡を、適当に見て歩いたことがあった。記録は、昔のばか○○○カメラで撮った、露出過多の白黒写真と、史跡ガイドブックを基にして書いたメモを、書き改めたものだけ。

ただし、史跡や景観の有り様は、昭和43年4月末のものだ。



75per-gennpei-inamura.JPG源平池

鶴ヶ岡八幡宮の境内に、源平池というのがある。源頼朝の妻・北条政子が、大庭景義に命じて掘らせたものという。

東西に広がったこの池の、東側には、源氏を意味する白蓮を植え、西側には平氏を意味する紅蓮を植えて、源氏の繁栄と、平氏の滅亡を祈ったと言われる。池の中の島には、旗上弁天が祭られている。





七里ヶ浜

明治43年1月、逗子開成中学校のボートが、七里ヶ浜沖で転覆、少年12名が溺死するという悲劇が起きた。発見された遺体の中でも、ひとしお人々の涙を誘ったのは、小学生の弟を保護するかのように、しっかりと胸に抱きかかえた兄の姿であった。

「真白き富士の嶺」の歌(「七里ヶ浜の哀歌」)は、当時の鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教員・三角錫子が、アメリカの曲に、この悲劇を作詞したもの。

稲村ヶ崎

元弘3年夏、関東の大軍を率いた新田義貞の中核軍が進攻。鎌倉中心部へ抜ける極楽寺坂切り通しを含めたこの周辺では、防戦する北条方の抵抗が激しく、新田勢は、ここを容易に突破できなかった。

しかし、干潮時、これを利用した新田勢は、稲村ヶ崎の海底を迂回して北条方を奇襲・粉砕、若宮大路を直進し、鎌倉幕府に乱入した。この時すでに、近くの東勝寺に退いていた北条高時は、一族郎党ともども自刃、滅亡した。剛勇・鎌倉武士の悲壮な最期を象徴するかのように、市中は北条方将兵の、累々たる遺体に満ち、埋もれていた。

新田義貞が、海中に、黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈ると、海水が引き云々の伝説が知られている。この伝説を歌われた明治天皇の御製碑と、逗子開成中ボート遭難の碑および石像が、この稲村ヶ崎にある。



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posted by somo at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和43年鎌倉史跡散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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