2010年09月26日

濃姫夢幻4−信長メモ9

濃姫「早世」説の史料?

いわゆる濃姫の、生死、史実は不明のままで、信ずべき史料が、まるで無く、真相の史的確定は諦めるしかないようだ。

其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におわしける。容儀世に優れける故、信長、妾にせばやとて、龍興へ談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の為には姪なれば、其妻死後に遣わし難し、況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分、當家は齋藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。
(『濃陽諸士伝記』)

信長の舅(しゅうと)たる齋藤道三を倒して、美濃の国主になった齋藤義龍。彼もまた病死したが、上の記述の対象年代は、その後の、齋藤龍興の代の初めごろののことか。永禄4年5月中旬以降のこととなろう。

義龍の娘の馬場殿なる美姫を、信長が、側室として所望したことへの、美濃・齋藤の当主、龍興の反応。

「信長正妻の姪にあたる馬場殿を、信長の正妻の死後に、信長に贈るのは難しい(忍びない、の意か)。ましてや、側室としてなど・・・」の意味か。

要するに、ここでは、この時点で、信長の正妻(時期が時期なので、濃姫)が、すでにこの世に居ないことを前提の、龍興の言として、記述されている。これが、濃姫の早世を示唆しているというのだ。

確かにこの文脈からは、そう読めないこともない。


濃姫「早世」は、不明

しかし、だからといって、この史料の他の部分には、信長の正妻が亡くなったなどの記事は無い。これ以外の史料にも、もちろん、濃姫またはそれに該当する女が亡くなったとの記事など、無いようだ。

いわんや、この、『濃陽諸士伝記』は、史学上、史実確定に資する史料ではないとされて久しい(これより遅く成立の『美濃国諸旧記』も)。

したがって、この『濃陽諸士伝記』中の一文は、そう思えないこともないが、といった程度のものであって、史実究明のためには、ほとんど役に立たない。何ら、濃姫早世の史料的根拠にはならないのだ。

「通称・濃姫」が、生き続けていたことも、没したことも、それらを裏付ける「濃姫史料」は全く無い、といっても過言ではない。あとは、3級以下の古記録や軍記物、偽文書などを活用した小説もどきやテレビなどの、推測に推測を重ねた、想像=虚構の世界でしか、濃姫には逢えない。

濃姫の本名が、帰蝶、ということも、史料の質的にどうかと思われる『美濃国諸旧記』に出てくるくらいで、史学的実証はできず、史実とするのは困難である。

今後、濃姫についての新しい一級史料が発掘されることを、期待する以外に無い現状ではある。
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2010年09月25日

濃姫夢幻3−信長メモ8

(言継卿記に続き)、

濃姫の、生存・長寿説の史料3点と、感想


1、史料3点のうち、先ず「養華院」名の史料2点
安土総見寺の、寛延3年(1750年)成立の織田家の過去帳、『泰巌相公縁会名簿』に、次の文字があるという。

養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七壬子七月九日 信長公御臺

ここに、「信長公御臺」という言葉が出てくる。御臺とは、正妻のことだから法名・養華院は、濃姫であって、離縁されたり、早死にしたり、また、本能寺で夫とともに死ぬこともなく、長生きをしたのだ、との話がある。

しかし、この話は、そのままでは史実としては成り立たない。理由は、下記2点。

●「御臺」は代名詞なので、この過去帳の、この年月日に没した「養華院・信長公御臺」が濃姫であるためには、他の信頼できる史料によって、濃姫であるとの裏付けがなされなければならない。そうした他の史料が無い。

他にも「養華院」名の登場する史料はあるが、比較的に閲覧・参照し易いものが、書籍としてまとめられ、刊行されている『柳本織田家記録』である。

『泰巌相公縁会名簿』の「信長公御臺」が濃姫を指すとの解釈が、決して成り立たない、もう一つの理由が、この『柳本織田家記録』の記述だ。

●信長の弟・織田長益(有楽斎)系統の子孫、(大和)柳本藩の記録を収録した『柳本織田家記録』に、「養華院殿」の記載がある。それは、京都・大徳寺の「総見院」にある石塔(供養塔)に刻字された、法名・没年等の写しである(大徳寺総見院は、羽柴秀吉が、信長の菩提所として建てた)。

該当部分の中身を引用する。

京大徳寺中総見院ニ有之御石塔

(中略)

養華院殿要津妙玄大姉
信長公御寵妾也、慶長十七子年七月九日

(後略)

『柳本織田家記録』のこの項には、信長の肉親を含めた縁故関係者の、法名・没年等の写しが、ずらりと一覧されており、その中のひとつ。

つまり、ここでは、養華院は、「信長公御寵妾」、つまり、側室と明記されているのだ。

妾=側室であるから、養華院が、信長初婚の正妻、濃姫ではないことは明白。

◇整理すれば、下記となる。

◆養華院が信長公「御臺」と記されているのが、(安土城内の)総見寺の過去帳。

◆養華院が信長公御「寵妾」と記されているのが、(京都・大徳寺の)総見院の石塔(供養塔)墓碑の刻文。

養華院が「御臺」ならば、養華院が濃姫である可能性も、無いとは言えない。養華院が「寵妾」ならば、養華院が、濃姫である可能性は無い。

なお、『養華院』は、この人物の法名であり、かつ、大徳寺内、総見院の北隅に、文禄年中(慶長のの前)、養華院自身によって造営された塔頭の院名。となれば、養華院の本拠はここにあり、安土・総見寺の過去帳に比べれば、大徳寺総見院の石塔(供養塔)の刻字=「信長公御寵妾」、のほうが、信憑性では、明らかに勝る。

ということで、『慶長17年7月9日没の「養華院」=総見寺過去帳の「信長公御臺」=濃姫』説は、そのままでは、まるで成り立たない。


2、三つ目の史料、「安土殿」のこと
安土殿、の表記を見たので当たってみたが、原文は、「アツチ殿」であった。他の用例を勘案して、安土殿、の解釈で問題は無いとは思うが。

(前略)

七百貫文。    岡崎殿
 オワリ。

六百貫文。    アツチ殿
 ヒツシ。

(後略)

『織田信雄分限帳(ぶげんちょう)』(『続群書類従 第二十五集上』所収)から

『織田信雄分限帳』は、内容から、信長と嫡男・信忠の没後、次男・織田信雄が、歴史の表舞台に躍り出たころの成立と思われる。ここに、「アツチ殿」なる人物が、尾張国山田郡のヒツシ(羊神社のあたりか)に、六百貫文の知行をあてがわれている、との記述が見える。

これが濃姫かもしれない、というのだ。

だとすれば、濃姫は本能寺で没しておらず、天正10年代の初めごろには生存していた証拠となるのだが、これもまた、濃姫だという実証は出来ていない。仮に、アツチ殿が正妻の意味であったとしても、その時の正妻が、いわゆる濃姫だとは限らないからだ。

史料や軍記物に散見する、廉中、本妻、御臺、御局、北の方、大方、などの尊称代名詞は、つまり、それらが濃姫を指すという考えは、希望的想像に過ぎないということになる。

推測の連鎖や、想像は自由だが、その方法は、小説やドラマといった、虚構の世界に入ってしまい、歴史的事実とは無関係なのだ。小説やドラマは、それはそれで、個人の楽しみ方としては全くOKなのだが、怖いのは、小説やドラマが、史実として膾炙してしまうこと、それなのである。
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2010年09月20日

濃姫夢幻2−信長メモ7

「濃姫」と「信長本妻」

信長に輿入れしたあとの濃姫の足跡が、確かな史料では、ほとんどない、より厳密に言えば、全くない、と言ってもよいほどだ。

晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、佐藤も十七人之内也
(『言継卿記』、永禄12年7月27日の条)

早旦弾正忠所へ罷出、於門前曾禮申之、しうとめの所へ禮に被行、彼門前迄同道、山上城可見物之由被申
(同史料、同年8月1日の条)

※『言継卿記』:公家の山科言継の日記。一級史料。永禄12年、岐阜に滞在、その時の記述。

晩頭に(宵、の意味だろう)、佐藤(錫携は、錫を携えての意か、名前か)が来て、一杯やった。そのとき、佐藤から言継が聞いた話、ということで、故・齋藤義龍の後家所有の壷を、信長が強く所望したため、騒動が生じた様子を、言継が、日記に描いている史料。

ここに「信長本妻兄弟女子十六人可為自害」の記述が出てくるのだが、この「信長本妻」は濃姫、と見ることは可能、なのだそうだ。

なぜならば、この内容は、言継が岐阜城下に滞在中の記録である。つまり美濃国中でのことであり、すでに岐阜城の信長の管理下にあるとはいえ、齋藤義龍の後家、つまり、旧齋藤一族や、その旧臣絡みの話であって、そこに「信長本妻兄弟女子十六人」「國衆」の語が出てくるからだ。

しかも、年月日は、信長が、美濃・齋藤氏を放逐、美濃を領国とした、わずか1年余のあとのこと。

さらには、そのあと、すぐ(5、6日後の8月1日の条)に、「しうとめ」の語が出てくる。この条も読めばわかるとおり、岐阜城内での話である。言継が、城下の宿所を出て、岐阜城の信長を訪問したところ、「信長は『しうとめの所へ禮に』行く、とのことだったので、城門まで同行した。この際、山上の天守閣見物を、信長から勧められた」といった意味だろう。

言継の描き様では、信長の「しうとめ」は、岐阜城から、さほど遠くないところに居住しているとの雰囲気が伝わってくる。やはり、美濃国内、しかも城下に居住、と見てもよいだろう。

となれば、この「しうとめ」は、前条、「信長本妻」の「母親」、「信長本妻」は、いわゆる「濃姫」、と見るのが、文脈からは自然だから、すると、永禄12年7〜8月1日の時点では、濃姫は生存していたと、考えることは可能だ。

ただし、これについては、疑問がないでもない。


「信長本妻」=「濃姫」の疑問点

1,「信長本妻兄弟女子十六人」の読みは、「信長本妻と、その兄弟女子」、なのか、それとも、 「信長本妻の、兄弟女子、なのか」、だ。

例えば、「信長本妻と、その兄弟女子」ならば、この壷騒動に、信長本妻も関わった、となって、信長本妻が、このとき、生きていたことになる。
  
これに対し、もしも、信長本妻「の」、兄弟女子、の意ならば、仮に信長本妻が、濃姫であれ誰であれ、「信長本妻」が、この時点で、生きていたか否かの判断はできない。信長本妻が、このとき世に無くとも、信長本妻の兄弟女子は生きていて、壷騒動に関わった、となるので。

この場合、信長本妻が世に無きこと、「故」と付すべきところを、言継が省略して記述したに過ぎない、ということになる。また、あとの記述の「しうとめ」にしても、この時点で、しうとめの娘である「信長本妻」が亡くなっていても、しうとめはしうとめ、である。

「の」と、「と」の用法から来る、文意の違い、この問題が、一つあるのである。

2,さらにもう一つの問題は、「信長本妻」にしろ、「しうとめ」にしろ、実際には誰なのか、不明でしかない、ということだ。

仮に、濃姫が早く没したあと、信長が、同じ美濃・齋藤氏に縁のある女をもらい、「本妻」としたかもしれず、仮に、その場合、この時点での「信長本妻」は、その女、ということにって、信長初婚の相手、濃姫ではないことにもなる。


何はともあれ、『言継卿記』のような一級史料が少な過ぎて、濃姫の結婚以後のことが実証できず、断定できるまでには至らない。生死・実態ともに、まるで不明、という現状は変わらないのだ。
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2010年02月12日

本能寺の変「天正十年夏記」の解釈−信長メモ6

本能寺の変、朝廷陰謀説の一史料 その読み方

本能寺の変の原因や、明智光秀の黒幕について、作家や歴史家が、いくつもの説を唱えている。実証的なものもあれば、推理小説まがいのものまで、多彩で、楽しいものだ。

朝廷陰謀説というのも、そのうちの一つである。

光秀と朝廷がツルンでいた、というのだ。

それを証する史料のうち、例えば、次のようなものが提示される。

六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候
(『天正十年夏記』勧修寺晴豊)

光秀の近臣、斎藤内蔵助(利三)が、山崎合戦後、羽柴方に生け捕られ、京中を引き回されながら、刑場へ向かう。これを、公家の勧修寺晴豊が、道筋で見物したのだろう、その時の光景と思いを、本人が日記にしたためたもの。

この描写のうち「信長打談合衆也」の表現に目を付けて、「信長打倒を、我ら(晴豊=公家)と謀議した者」と解釈すれば、朝廷陰謀説の、一つの「根拠」が、出てくるわけだ。

だが、それは早とちり、というのが、筆者の感想である。

このばあい、「談合」の意味を、打ち合わせ、謀議、根回し、密談、などと、仮に、現代風に解釈したとしても、その意味は、

1、主人・光秀と「談合」した主臣たちのうちの一人。
2、我ら(晴豊=公家)と談合した者。

と、二通りの解釈が、当該文からは、できるはず。

そうであれば、少なくとも、この史料から導き出される解釈としては、1、の解釈が普通であり、必ずしも、2(朝廷陰謀説)の解釈「しか出来ない」、ということには、ならないのだ。

これを朝廷陰謀説を唱える論者の方々は、どう合理的に処理されているのだろうか。

いわんや、「談合」ではなく、「談合衆」と書かれている。

「談合衆」とは、中世の武家において、軍議、軍談が主要な任務の近臣集団を言う言葉である。したがって、「信長打談合衆」とは、信長打倒を、主人・光秀と語り謀った、主だった近臣・部将・重臣、というほどの意味でしかない。

また、仮に、斎藤内蔵助が、晴豊ら公家たちと、信長打倒を謀議した相手なら、「明智者也」「武者なる者也」などと、晴豊自身が、「とうに知っていること」を、自分の日記に、あたかも他人に、あらためて説明するかのように、わざわざ書き記すことは、この段階ではありえない。

さらに言うなら、明智の残党狩りのありさまを、眼前に見る最中に、「信長打倒を、我々と打ち合わせした者」などと読める文言を、いくら私的な日記とはいえ、その日の日記に、リアルタイムで書き込むとは、とうてい思えない。

そう、『天正十年夏記』の意味するところは、単に、「 1、主人・光秀と「談合」した主臣たちのうちの一人」といったものに過ぎない。

したがって、この「天正十年夏記」(勧修寺晴豊)は、”朝廷陰謀説”の根拠にも、傍証にも、全くなりえないのだ。
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2010年01月10日

光秀−「本能寺」直前の不審な行動−信長メモ5

明智光秀、「坂本在城10日間と、愛宕山連歌の会」の謎
本能寺の変について、とりとめのない思いを記せば、光秀の行動に不審がある。

5月17日、坂本入城後、彼は10日間、そこに在城するが、その間の消息が不明という。10日間と言えば、かなり長い。その間、光秀は、いったい、何をしていたのか。何とも不審ではある。

そして、5月26日、光秀は、自分の、もう一つの居城、丹波の亀山に、ようやく移動するが、すぐに翌日、愛宕山(神社)に参詣するとともに、さらに翌日(5月28日)、そこで連歌の会を主催している。

これが先ずは、筆者には不思議に思えてならない。

歴史を変える大事、しかも自分が逆臣の汚名を着ることが明らかな大事、その決行迫る直前に、連歌の会を主催とは、何ともまあ、暢気なことを、と思う。

と、ともに、会を主催というが、ならば、そこに参加した、紹把らの歌人たちは、もっと前に、光秀から、参加を懇請され、招待されていたということだろう。だからこそ、当日、山登りして、愛宕山に参集できたわけだ。2、3日前の呼びかけでは、当日、連歌の歌詠みたちが、集まれるかどうか、会が開けるかどうか、わからないではないか。それは、通信手段が極めて発達した、現代とて同じこと。

すると、愛宕山の連歌の会のセッティングは、何と、坂本在城中に行なわれたことになるわけだ。

中国出陣を控えた光秀、いやさ、主君襲撃を控えた光秀が、坂本在城中に、愛宕山での連歌会の手はずを整える−−これは、いったい、何を示唆するのか。

それともう一つ。愛宕百韻と称される、この会で、光秀が詠んだ「ときは今天が下しる五月哉」なる歌が、謀反の意思を示唆したもの、と、解釈されている。有名な解釈だ。

これもおかしいと思う。

いくら存知よりの歌人たちとはいえ、腹心の部下でもない、どこで誰とつながっているかわからない人たちの前で、渾身、背水の大事決行直前、謀反の意思を示唆する、と思われてしまうような歌を詠むことで、己が陰謀を、わざわざ外部に知らせてしまう。そんなことをするわけがないではないか。

「坂本在城10日間と、愛宕山連歌の会」−−本能寺の変直前の、光秀のこの動きが、不思議でならない。。。
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2007年02月14日

本能寺の変」雑感2−信長メモ4

(前回からの続き)

「信長、ただ今、本能寺に在り」−情報は古くなる?
吉良邸討ち入りの場合は、浪士たちは、とことんまで、上野介の在宅を、確認し続けたのだ。

予定は予定、というのは現代と同じで、信長の予定が変わること、あるいは、茶会後、夜にかけて外出しないとは限らない。そうした事態への備えなど、当然、光秀にあったはずだ。

例えば、赤穂浪士と吉良邸の場合は、同じ江戸市中、吉良邸のある本所近辺に浪士拠点があって、吉良邸を監視する味方と、浪士拠点との相互連絡自体は、容易ではあった。

だが、光秀の居城・亀山(現・亀岡市)と、京・本能寺との距離は、20キロ余りで、相当なものだ。「信長、ただ今、本能寺に在り」の最新情報が、6月1日の午後9時30分ごろに、亀山城の光秀に届いたとすると、京から届いた、その情報は、もっと、さかのぼった時点での内容なのだ。


本能寺の変、内通者も有りか? と
現代、徒歩では1時間に4、5キロ進むというが、ドラマや小説のの忍びの者ように、訓練された足速が、7キロ/毎時で進んだとしても、京から亀山まで3時間前後だ。上の例えのように、最新情報が、午後9時30分ごろに亀山に届いたとしたなら、実際には午後6時30分ごろの本能寺情報であるはずだ。

そして明智勢の亀山進発が午後10時ごろとされ、さらに本能寺攻め懸かりが、翌6月2日の午前5時〜7時の間という。これを5時としても、前日の、確認された情報の時点からは相当な時間が経っている。「信長、ただ今、本能寺に在り」という、当初の情報は、この段階で、そのまま生きているのだろうか。

もちろん、夜・就寝時間帯だから、その間の外出・移動などの予定変更の可能性が少ないことは確かだ。しかし、緻密・慎重と言われる光秀が、衝撃の大事を行なうに際し、この間、何も確認しないまま、いきなり、しゃにむに本能寺に突入するとも思えない。

「本当に、今この時に、信長は、本能寺に居るのだろうな?」 京へ向けての数時間の進軍中、この疑問を、光秀は当然、口にしただろう。しなかったらおかしい。そして、この疑問を解消する、その時点での、確たる情報を、どのようにして、光秀は得たのか、ということになる。

小説やドラマのように、忍びの者の活躍? そう、想像なら、いくらでも出来る。

おそらくは、明智勢の京侵入時点などに、最後まで知らせを送る連絡者の存在は無論のこと、京の市街および織田家中またはその周辺に、「内通者」さえ、いたのではないか、と、筆者には、そんな気がする。史料に見えないから、想像であるが。

史料に見えないと言えば、本能寺に、この瞬間、信長がいるか否かの確認どころか、信長が6月1日、本能寺に泊まる予定、ということからして、光秀は、どうやって知ったのか?という疑問すら、筆者にはある。「常識」で判断して、いろいろな想像や推測は、もちろん出来る。だが、それを示す史料があるのか無いのかということだ。

何しろ、光秀が中国出陣の下令を受けて、準備のために、琵琶湖東岸・安土城の信長の下を離れ、琵琶湖南岸の自分の居城・坂本に移動したのは、5月14日なのであって、本能寺襲撃までに、有るは19日間も有る。

つまり、その長期間、信長の動向を、自分で直接知り得る環境には、光秀はいなかったわけだ。

総司令官・信長の「今後の予定」を、事前に聞いていたとしても、その19日の間に、その予定が、予定通り進行するか否かを、光秀は、直接確認し続けられる環境には居なかったということ。

信長が6月1日、本能寺に泊まる、ということの情報または確認は、どう取ったのか。その史料は?

そんなことの史料など関係なかろう。とにかく「変」は起きたのが史実なのだから。そんなことを言えば、信長とて生理的欲求はある。当然トイレに行く。本能寺で、信長がトイレに行ったという史料があると思うのか?でも、必ず行ったはずではないか!ばか者!と、笑われる話にもなろうが。。。

それはともかく、距離的に近いところにいるがゆえに、信長の動向を正確に知り得る、確信犯的な内通者が、信長側に、あるいは、その周辺にいた、ということは、考えられることだと思う(それが、秀吉や家康のような有名人とは限らない)。


光秀−−不審な挙動
とりとめのない思いを付け足せば、光秀の挙動に不審がある。

5月17日、坂本入城後、彼は10日間、そこに在城するが、その間の消息が不明という。10日間と言えば、かなり長い。その間、光秀は、いったい、何をしていたのか。何とも不審ではある。

そして、5月26日、光秀は、自分の、もう一つの居城、丹波の亀山に、ようやく移動するが、すぐに翌日、愛宕山(神社)に参詣するとともに、そこで連歌の会を主催している。

歴史を変える大事、しかも自分が逆臣の汚名を着ることが明らかな大事、その決行迫る直前に、連歌の会を主催とは、何ともまあ、暢気なことを、と思う。

と、ともに、会を主催って、そこに参加した、紹把らの歌人たちは、もっと前に、光秀から、参加を懇請され、招待されていたということだろう。だからこそ、当日、山登りして、愛宕山に参集できたわけだ。

すると、愛宕山の連歌の会のセッティングは、何と、坂本在城中に行なわれたことになるではないか。

中国出陣を控えた光秀が、主君襲撃を控えた光秀が、坂本在城中に、愛宕山での連歌の会の手はずを整える−−これは、いったい、何を示唆するのか。

そう、光秀の、この時期の愛宕山イベント、それはどんな意味があったのか、大いに不審である。

光秀の「坂本在城10日間と、愛宕山行き」−−本能寺の変の真相を解く鍵が、この2つにありそうな気が、筆者にはするのだが。。。
ラベル:信長  本能寺
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2007年02月13日

「本能寺の変」雑感−信長メモ3

本能寺の変と、信長の「予定」
どうでもいいことを想像してしまった。

本能寺の変と、赤穂浪士の討ち入り

6月 1日  本能寺 茶会 翌日午前5〜7時に襲撃
12月14日  吉良邸 茶会 翌日午前3〜5時に襲撃


よく似たパターンである。二つとも、当時の社会を仰天させた事件。

襲撃は、いずれも朝がた、および、真夜中または未明である。

オープンな戦闘と違って、一撃必殺・必勝を狙うには、動きの秘匿を含めて、寝起きの朝がたや、就寝中の真夜中・未明、といった頃合いに襲う、ということだろう。

しかし、前日に茶会が開かれたことまでもが同じだ。

赤穂浪士の場合は、茶会が吉良邸で開かれることを知って、14日は確実に上野介が在宅するとの確信を得、その夜の襲撃に踏み切った。

この吉良邸襲撃の場合は、茶会の有る無しが、襲撃時点の決定を左右している。茶会の時間帯にもよるが、終わった後も、夜までの間、上野介が外出しないかどうかの、さらなる監視も行なわれたのだろう。

では、本能寺の変ではどうなのか。

茶会の模様についての詳細は不明らしいが、6月1日に、信長所有の名物茶器の披露を含めての茶会が開かれたことは、公家の日記や茶書、茶人関係の史料から判明している。

しかし、6月1日の茶会そのものが、赤穂浪士の時と同様、明智光秀にとって、「信長、在本能寺」を確認する手段となったとの史料は無く、また問題にもなってはいないようだ。たぶん、茶会がどうこうの以前に、「信長、在本能寺」を確認する手段が、他にも有ったからなのだろうが。

つまり、光秀は信長の家臣だから、総司令官の信長が、その日の夜、本能寺に居る、ということは、茶会の予定を含めて、事前の情報として、光秀が知っていても、何らおかしくはない。

しかし、その日、本能寺に信長が居るだろうことを、事前の予定として知っていても、果たして、信長から直接聞いたかもしれない、その「予定」や、間接的な「伝聞」だけを目当てに、光秀は、大軍を催して本能寺に打ち込むだろうか。「事前の予定」と、本能寺襲撃時点との間には、甚だしい時差があるからだ。

予定は変わる可能性があるのは、昔も同じだろう。

そして又、電話も無線も無い当時、亀山在城の光秀が、20キロ離れた京・本能寺に、信長がいるか否かを、リアルタイムで知る術もない。

「信長、在本能寺」情報を、光秀は、どのように採って確信を持ち、決断したのか。吉良邸と、浪士の拠点といった、短い距離のことではないのだ。

大勢には無関係な、細かいことながら、気になる。
ラベル:本能寺 信長
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2007年02月01日

濃姫夢幻−信長メモ2

濃姫を想う−信長の正妻の行方

信長が本能寺で、明智光秀に討たれたとき、敵味方の遺体が累々たる境内に、若やいで見えるものの、1人の、あでやかな姥桜(うばざくら)の遺体があったという。

このような話が、ある記録に載っているということを、どこかで読んだことがある。何らかの古記録か軍記物にあるのだろうが、それ以上は筆者には分からない。その時点では記録名を見たのかもしれないが、忘れてしまったのかもしれない。少なくとも、信長研究の基本史料たる、太田牛一の『信長公記』には無い。

この「ある記録」をヒントにしたのだろう、山岡荘八は、その著作『織田信長』で、夫のために本能寺で戦って倒れた正室・濃姫の姿に、この話を対応させている。

濃姫の名には、主君・信長の奥方に、美濃の姫を迎えた、家臣たちの内々の呼び方、という雰囲気が感じられる。

そして、濃姫の名は、ほんとうは、帰蝶というとの説がある。偽書の武功夜話が広めた名前は、奇蝶だが、帰蝶だろうと奇蝶だろうと、それらは小説や個人的想像の域を出ることはない。歴史的事実ではないのだ。

つまり、この濃姫に関する直接的な史料は、ほとんど無いに等しい。

言われているのは、離婚したか、早死にしたかではないか、あるいは、結婚後もしっかり存在したが、本能寺にはおらず、長生きした、などだ。

様々な説があるものの、どれも決め手の1級史料に欠け、憶説、想像のレベルを出ないのがもどかしい。

戦国のことだから、女性や女性の名は歴史の表には出にくい、というのが基本にある。北政所や淀殿などのように、その女性自身が歴史のスポットライトを浴びる立場になると話は別だが、一般的には、史料に乏しく、研究自体が成り立ちにくいのだろう。したがって、その追求は終局、小説(フィクション・虚構)の世界に入らざるを得ない。

稀有の英雄・信長の正室、濃姫は、どのような女性か、夫・信長との夫婦の在り方はどうだったのか、など、実際を知りたいのが人情だが、残念なことだ。

ちなみに、山岡荘八の『織田信長』の該当箇所はこうなっている。

 夜がほのぼのと明けだした。
 もう濃御前も草の上で息絶えている。
 その死骸はいぜんとして若く、いまにも笑い出しそうに静かに見えた。それなればこそ、当時の記録に、大ぜいの男たちにまじって、ただ一つ女性の屍体があったが、それは二十八九とも見えるあでやかな姥桜で名前をおのうという老女(侍女頭)なそうな......と残っている。
 それが信長の室であろうとは、誰も想像つかなかったからであろう。
     ※山岡荘八『織田信長』(下・本能寺の巻)から引用。
ラベル:濃姫 本能寺 信長
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2007年01月29日

大河ドラマ雑感−信長メモ

大河ドラマと織田信長
NHKテレビの大河ドラマは、『功名が辻』が終わり、『風林火山』が始まった。『風林火山』は、武田信玄の家臣、軍師として知られる山本勘助の物語だ。ということは、武田信玄は脇役の扱いになるのだろう。ちょうど豊臣秀吉を主役とする場合の、織田信長の扱いと同じか。なお、信玄そのものは以前、『武田信玄』で大河ドラマ化されている。

ところで、この織田信長だが、信長ファンとして、一言書いておきたいのは、NHK大河の企画スタッフや脚本家が、信長という、この絶世の英雄に対し、かなりの偏見、でなければ狭過ぎる了見を持っているのではないか、ということ。

信長は、人も知る、日本史上、最大級の英雄だし、中世から近世への転換を担当した革命児でもあって、これは歴史の常識だ。しかも逆臣の攻撃を受けての横死という、劇的な最期もある。したがって、テレビは、この人物を、むしろ他の誰を描くよりも、最もドラマティックに描けるはずなのだ。

にもかかわらず、筆者の知る限り、40数年の歴史を持つ大河ドラマで、信長が完全な主役として扱われたのは、ただの1回のみ、という惨状?がある。


NHK大河『信長 KING OF ZIPANGU』の惨状
大河初期の国盗り物語の、高橋英樹扮する信長は大評判となり、さらにその後、太閤記の、高橋幸治の信長もまた、「本能寺の変で死なせないで!!」といった、ほほえましい、視聴者の絶大な人気が集まった。が、これら2作品の場合も、信長は、言わば第2主役であり、また脇役という位置付けに過ぎなかった。

それでも、この2作品における信長の描き方は、信長は冷酷非道などと言われているが、実際には、こうであったのではないか、本当はこうあってほしい、といった、日本史有数の英雄・信長に対する日本人のイメージや願望に、ほぼマッチしたものとなっていた。両作品における第2主役・脇役の信長が人気を博したのは、演じた両高橋の好演・好感だけではなく、まさに人物描写自体にこそ、その要因があったのだ。

で、'92年(平成4年)、信長を主役とする大河ドラマが放映された。そして、それは、大方の期待を裏切って、史上、最低最悪の出来だった。

暗い、気弱、神経質、超マザコンで、それゆえに、時にトンデモない凄いことをやってしまう、あたかも病的な人物として描かれたのだ。

しかも、1年を通して、乞食のような外人を狂言回しに使い、これが主役なのか、信長が主役なのか、視聴者には、よく分からない、という有様。

スペイン・バルセロナのオリンピック、スペイン年、にあやかって、信長なる人物への新視点を打ち出したつもりなのだろうが、戦国期の日本で、布教活動をしたルイス・フロイスが、その、乞食みたいな外人の正体だ。

日本人の信長像と、まるで違うではないか、大河ドラマの主役なのに、よくもこんな変チクリンな人物として信長を描くものだ、と、NHKと企画者・脚本家の神経を疑ったものだ。

大河ドラマ史上、最低最悪の出来、それが'92年の『信長』だった。子会社・NHKエンタープライズへの外注、その第1作目だと言う。

そして、去年の『功名が辻』でも、もちろん、信長は脇役。

国民的英雄・信長を主人公に、真正面から捉え、ドラマティックに壮大なスケールで描こう、という気は、NHKには、まるで無いようだ。素直でないような、何とも奇怪な方向性だと思う。疑いを抱かずにはいられない。


信長の主人公化を避ける? 描く力量が無い?
叡山焼き討ち、一向一揆平定などを含め、守旧・既得権益、甘えにしがみつき、発展を阻害する中世的な桎梏、アンシャンレジウムに対し、信長が行なった強烈・大規模な破壊と殺戮。

たぶん、「戦後的見方」に絶対的に絡め盗られ過ぎたNHK(エンタープライズ)としては、信長を主人公化してのドラマ作りの上で、このあたりが、何とも思想的・政治的に、どうにも消化(昇華)しきれない部分なのかも知れない。それで信長主人公化を避けるのだ。

その結果、信長がぶっ壊して建設のお手本を見せたあと、それを引き継いだサル秀吉とか家康とか、はたまた山内某とかの、当たり障りの無い、安易な方向へ、どうしても流れてしまう。

しかし、勘違いしてもらっては困る。大河ドラマは、小説であり、ドラマなのであって、歴史ではないのだ。1から10まで、史実に囚われ過ぎる必要は全くないわけだ(分かり切ったことを、あらためて言うのも可笑しいが)。

信長を主人公にし、それを国民的人気ドラマに仕立て上げられなくて、どうするのだ。プロの名が泣こう。

信長主人公化ドラマの原作にふさわしい、格好の小説が、すでに有るではないか。「青少年に夢と勇気を与え、血湧き肉踊る傑作、雄渾の筆致で描く」(初版時宣伝コピーの趣旨)とうたわれた、その名も『織田信長』(山岡荘八)という、信長物語の傑作が。

歴史小説の大家の、この作品を、NHKや企画者、脚本家が知らないはずは無いが、長年にわたって、なぜか、避けて通っている、ということなのだろう。


それとも、信長という人物と業績は、現代の誰も把捉し切れない、それほどの超巨星だということか。そして、だからこそ、信長を真正面から捉えて主人公化した大河ドラマを、作る能力のある者が、NHKとその周辺には、いない−−実のところ、これが真相なのかも知れない。
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