2010年10月18日

古代阿波の謎を暗示する、大和三山

大和三山、三輪山、など、その他、遺跡、古墳、神社などが作り出す三角形があるという。

三角形が何を意味するのか、しないのか、これを推定するのが問題なのであって、これは難しい。何も意味しない偶然の産物かもしれないからだ。

なぜなら、三点または複数点を直線で結べば、正か変形の、三角形や多角形になるのは、当たり前だからだ。つまり、幾何学的には、何の不思議も無いことになる。春分・秋分の、太陽の道を示すという話、そのほか、いろいろと話があるのだろうが、たぶん、そうしたことを示唆するに留まるもので、古代人がほんとうは何を考えて造ったものなのか、までは確定できないはずだ。

例えば、大和三山は、畝傍山を頂点として、ほぼ二等辺三角形となることが知られている。どんな解釈が、いくつあるのかは、詳しくは知らないが、三輪山が関係することぐらいは見たことがある。

そこで興味本位に、筆者なりの勘で、耳成山と香具山をつなぐ直線(底辺)の中点から、頂点の畝傍山に直線(垂線)を引いてみた(下掲地図は、「国土地理院『電子国土』web」上のものを、筆者が加工した)。


1、その垂線を、東北方に延ばせば、確かに三輪山(大神神社)に入る。

web使用大和三山二等辺三角形、垂線、文字・矢印.jpg


2、一方、その垂線を、頂点たる畝傍山から、西南方に延ばせば、畝傍山の西南、忌部山に至ることがわかった。

web使用、大和三山三角形・垂線、忌部山、二等辺.jpg


3、そして、この大和三山からの直線は、もっと延ばしていくと、四国の徳島県、つまり、阿波国に入り、剣山系に到達するのだ(線引きがアナログで角度に誤差があるため、剣山自体を指すか否かはともかく、阿波・徳島県を指すことは間違いないと思う)。

web使用、大和三山と阿波国と、剣山の関係1.jpg


●橿原・畝傍山の神武天皇と、忌部、これは史実的に、深いつながりがある
●そして、忌部と阿波、これも深いつながりがある。
●古事記には、阿波方言が使われているという。
●淡島の、古事記の記述における「位置付け」
古事記・国生みの条。ヒルコ(水蛭子)の次の子。これにつき、古事記(武田祐吉訳注・角川書店・『新訂古事記』初版)の脚注は、「四国の阿波方面の名。この部分は阿波方面に対してわるい感情を表示する」と記す。

などなど、古代大和と阿波国の秘められた関係が、既存の史学をなぞってすら、ところどころで示唆されているのが見つかる。

大和三山が成す二等辺三角形の垂線の延長が、なぜに阿波国、そして剣山を指向するのか。

以前メモした、仁徳天皇の国見の御製。ここでは、阿波方面を望みながら、「我が国見れば」と、仁徳天皇は歌ったものだ。

日本古代、阿波国方面に、何があるのか。

三角形や垂線の方向は、偶然で、常識的解釈を超えるような、さほどの意味も、あるいは何の意味も無いのか、それとも何か、重要なことを暗示しているのか。
ラベル:阿波
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2007年04月04日

騎馬民族は来なかった 40年前の先生

騎馬民族は来なかった
江上波夫の騎馬民族渡来説が華やかなりし頃、そんな者は来なかった、と、習った。大学時代のことだ。

その根拠をいくつか、その先生は挙げたが、ほとんど忘れてしまっている。

覚えているのは、こんなことだ。


古代、原始の舟って、知ってる?

元寇、つまり、騎馬民族の蒙古が来襲した頃、西暦1000年代だけど、元軍は、その当時でさえ、自分たちの基本的な戦力である馬を、連れて来なかったの。

大量の馬を、当時の舟に、乗せられないからね。

馬を、元軍が連れて来られなかった理由は、当時の舟の貧弱さ。

その元寇から1000年前後もさかのぼる古代、そのころの舟に、馬、乗せられないでしょ?

騎馬民族の「いのち」「手足」でもある馬を、元寇の時、連れて来なかったのよ。そのころの舟に、馬積めないの。

だから、古代に、騎馬民族が、大挙、海を渡って、日本に来て征服したというのは、小説にはなるけど、根拠薄弱、幻想であって、歴史ではないのです。

なるほど、と思わせる話だった。

今は、騎馬民族渡来説というのは、どうなっているのだろう。
ラベル:騎馬民族
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2007年03月01日

「仁徳天皇の御製と国生み神話」の示唆

仁徳天皇の御製と、阿波の謎
古代のことは、よく分からない。どんなに年数を経て、研究が進んでも、相変わらず謎だらけだ。先に書いた、日本書紀中の「『空中を飛翔する龍に乗った唐人』の記録」などは、極端過ぎる例ではあるが。これなど、常識外、納得のいく説明ができないから、どんな研究者でも、シカトしてスルーしてしまうのだろう。

天皇家の出自も、邪馬台国も、分かっていない。王朝分立論も並立論も、別段、確定ではなく、また、神武天皇から以降8人の天皇が、「欠史8代=架空」なのか、実は「有史8代」なのか等々も、確定してはいない。何らかの、それなりの根拠により、その時期、その論が、優勢か否かの、相対的状況が現出するのみでしかない。

中・近世史料などと較べて、考古学的出土物はともかく、古代史関係の信頼度の高い現存史料が、極端に少ないのだから、この状況自体は、仕方のないことと思う。

その、混沌として分からない古代について、思いを馳せてみることが、筆者にも、たまにある。

『古事記』所載の記事だが、仁徳天皇が、難波を出航し、淡路島に行幸された。その際、詠まれた御製に、

「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ」

というのがある。

ここに使用されている「我が国」の語意は、(大和朝廷または仁徳天皇の)領土とか、治めている地域とかのこと、または、自分の統治領域で、自分が今いるその場所と周辺、というほどの意味、などと解釈しても、何ら間違いではないだろう。その程度の解釈が、普通には採られているのだ。何の問題にもなってはいない。

しかし、この歌の意味からすると、仁徳天皇は、四国、阿波(徳島県)の方角を見て、「我が国見れば」と歌われているのではないか?、といった疑問が、筆者の脳裡には浮かんで来てしまう。

古事記では、淡島やオノコロ島などは、大阪湾や淡路島から見て、阿波・四国の方角にあるはずものだからだ。

もう少し言うと、古事記の記述では、「淡路島」が最初に生まれた子供(国)となっている。

淡路島とは、阿波路島=阿波への路なのだ。そう、阿波への路が出来たということは、それ以前に、阿波自体がなければならない。

第1子たる淡路島の誕生以前に、阿波国が、すでに在った(それについては『言挙げしない』が)。その『言挙げしない』阿波へ至る路=淡路島が生まれたよ、という風にも、古事記の国生み神話を解釈できるのだ。

つまり、この場合、『真に最初に生まれた国、または、「はじめから、すでに在った国」は、阿波国であった』、ということが、隠されている(言挙げせず)、ということにもなろう。


こんな推想から、仁徳天皇の御製の「我が国見れば」とは、従来、何の疑いも無く行なわれている、一般的、抽象的な意味などではなく、むしろ、自分(たち)にとっての我が国(=出身地、故郷)である阿波(四国)方面を見れば、という、具体的な意味であって、仁徳天皇、または、その御祖先の出身地を示唆しているのではないか、などと、想像をふくらませてみた次第である。
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2007年02月09日

古代史研究の「忘れ物」

日本書紀と、空飛ぶ龍に乗る者
身の回りの日常的なことにしろ、社会・政治的なことにしろ、その重要なことをピックアップして書くこと。これを記録と言う。そして個人が日々書けば、日記ともなろう。

しかも、そこに、どれほど重要なことが書かれていても、そのことが常識で測れることならば何も問題は無い。しかし、その、常識で測れる前後の文にはさまって、突然、常識で測れない突拍子もないような文があった場合、その文を、いったい、どう解釈したら良いのか。

それがどこかの、純然たる個人の日記なら、何とでも説明はつくだろう。だが、その記録が、複数の人たちのチェック、吟味、検証を経たものであったら、突然出現する、常識では納得できない、その突拍子も無い文は、その記録成立にかかわった、複数の人たちによって、むしろ重要・真実、と認められたことになろう。

前置きが長くなったが、天武、持統、文武、元明、元正という4天皇の時代を経て編纂・成立した、日本古代史の基本史料・『日本書紀』に、そうした場面が有る。

その中の、斉明天皇の項目に、有るのだ。その文の前には、斉明天皇ご即位の文、後ろには、蝦夷(エミシ)を歓待したとの文があって、常識的なそれら二つの記述の間に、何気なく、何とも奇怪な記述が有るのだ。


日本書紀・斉明天皇元年の条

(前略)

元年の春正月の壬申の朔甲戌に、皇祖母尊、飛鳥板蓋宮に、即天皇位す。

夏五月の庚午の朔に、空中にして竜に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城の嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。

(このあとには、蝦夷を歓待した記述等、後略)


(読み方)

はじめのとしのはるむつきのみずのえさるのついたちきのえいぬのひに、すめみおやのみこと、あすかのいたふきのみやに、あまつひつぎしろしめす。

なつさつきのかのえうまのついたちのひに、おほぞらのなかにしてたつにのれるものあり。かたち、もろこしびとににたり。あおきあぶらぎぬのかさをきて、かつらぎのたけより、はせていこまのやまにかくれぬ。うまのときにいたりて、すみのえのまつのみねのうへより、にしにむかひてはせいぬ。

※引用元:『日本書紀(四)』(岩波書店・文庫)

なお、この『「岩波文庫版」日本書紀』の校注者の「注」によれば、『住吉大社神代記』にも同様の目撃記述があって、そこでは、「和歌山県の兄乃山(せのやま)から葛城・生駒と北上した」との記述になっていること。

同じものを、つまり、別地点から見ているためだろうか、コースが一部違っているところなど、いかにも本当らしく思えてしまう。

さて、この記述については、古代史研究の学者さんたちには、まずは説明不可、といったところだろう(超常現象研究家の出番?)。その為す説明は、鳥の見間違い、想像の産物・・・こんなところか。。。

そうかも知れない。だが、描写が、あまりにもリアル過ぎることを考慮すれば、失われた古代科学のようなものが、このころ未だ一部残存していた、その目撃記述なのかも知れない。

現代において、古代史研究・日本書紀研究上、この記述が、問題にならないという、そのこと自体が、筆者には不思議である。
ラベル:日本書紀 斉明
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2007年01月26日

橿原・古代大和湖、そして神武伝承

神武天皇と歴史教科書
神話や伝説には、史実が反映されている、史実の片鱗が散りばめられている、という考え方は、シュリーマンの発掘を持ち出すまでもなく、史実追究の動機付けともなり、また、時には、その正しさが証明されたりもする。

扶桑社版「つくる会」の中学校用歴史教科書が、日本建国の祖・神武天皇を扱っているのは、その点で注目したい。ただし、史料によって証明されていないから、歴史叙述の本筋ではなく、伝承として、別枠のコラム欄で扱っているのだが、教科書への載せ方として、これまた、その姿勢は正しい。

逆に、建国の祖についての、これだけ象徴的な伝承を、大半の歴史教科書が載せていないというのは、疑惑を通り越して、滑稽ですらある。科学的ということや、学問と教育について、かなり古い、間違った、浅薄な認識を持った著者が書いているのだろう。あるいは、そうした著者は、滅び去ったイデオロギーに、いまだに束縛されているからなのか。滑稽ではある。

「大和湖」−橿原の縄文大集落と湖沼・大湿地帯
奈良県・大和の橿原は、古事記や日本書紀の伝承によれば、日本肇国の英雄・神武天皇の即位の地だ。この橿原の遺跡で、縄文土器の大集落跡と、イチイガシ(檪樫)の大樹根が多数出土した。米国・ミシガン大学が行った、炭素14による年代測定では、2600年プラスマイナス200年の結果が出た。測ったのは、繰り返すが、アメリカのミシガン大学である。

橿原の地名は、記紀以降、現実にも文献にも存在しなくなり、このことからも、本居宣長も疑い、存在感の薄い神武伝説ではあった。しかし、橿原の地名の由来たる樫の木の群生も、都かとも思わせる縄文大集落も、名にし負ふ、飛鳥川氾濫流土の地中深くに実在していたのだ。記紀の神武伝承には、何らかの史実の反映がある、とまでは言い得るだろう。

当時の大和は、今とは全く景観が異なっていた。大和に入った神武天皇の眼前には、びょうびょうたる湖水が広がっていたに違いない。縄文の海進・海退、隆起で、たたなづく青垣の内に取り残された、湖沼と大湿地帯が、大和盆地を覆っていたからだ。

大和盆地の大湖について判明していることは、標高60m以上まで、縄文遺跡の存在があり、それ以下は、当時、湖面・湿地帯であったこと。その後、1800年ほど前の弥生期・古墳期は、標高50m以上までが生活域であり、それ以下は湖面・湿地帯であったこと、などだ。つまり、大和地域の50m線、60m線の周縁部には、多くの遺跡が散在するが、中央の平野部には、縄文・弥生等の遺跡はないということ。それらの時代には、そこは、広く湖底であり、人が住めなかったのだから。

神武天皇の諸々の伝承地もまた、縄文遺跡の限界、標高60m線に、ぴたりと沿って存在する。これはつまり、記紀の神武伝承が、標高60m以下は湖で、現在と違って人が住めない状態にあった、縄文晩期の物語、ということ示しているわけだ。

この縄文期から1000年後の、飛鳥期・奈良期の記紀編纂者が、このようなことを計算して神武伝承地を偽作できはしないだろう。

そう、もし記紀が、後世の偽作なら、伝承地の中の一つぐらい、それとは知らずに標高60mから下の、縄文期の湖中に設定してしまってもおかしくはない。にもかかわらず、記紀に記述されている神武伝承の諸遺跡は、標高60m線、すなわち湖の縁に、すべてが沿って存在しているのだ。後世の偽作ではなく、より古い伝承を、記紀編纂者が、そのまま記載したもの、と考えるほうが自然だ。

誤解のないように記せば、こうした事実によって、神武天皇の実在が、証明されたわけでは、けっしてない。神武天皇の実否、その後の朝廷との関係などは、また別の問題だ。ただに、地質学、考古学等の研究によって、記紀の記述が、裏付けられつつある、記紀の神武伝承には、史実の反映が見られる、という段階までは、確かに言える、ということにとどまるのだ。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ
海原は かまめ立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は

記紀編纂より70数年前の舒明天皇。その御製にも、天の香具山から、かもめ飛ぶ、海原を望んでの情景が描写されている。観念的な海ではなく、また、小さな池を見ているのでもない。大和湖の広大な湖面、または、その残滓たる大湿地帯を見て歌われたもの、とするのが妥当だろう。

現代とは全く違う、古代の景観、ここに視点を置いての歴史研究が進めば、古代史の知識もイメージも、そして史実までもが、劇的に一変する可能性がある、と言えよう。

2yamatoko-imaji.JPG

こうしたことを抑えておけば、教科書に、神武伝承を載せることなど、非科学的でも何でもない。未証明の神話・伝説の類を、史実そのものとして教えなければ、それで良いのだ。むしろ、建国の祖の物語を、史実としては証明できない、遥か古代の伝承として、子供たちに教えることのほうが、どれだけ精神的に良い感化を与えるか、計り知れないものがあるのである。


上は、故・樋口清之博士の以下の著作に基づいた。
「日本古典の信憑性−神武天皇紀と考古学」(神社新報社『現代神道研究集成9巻』所収)
「うめぼし博士の逆・日本史3『大和王朝成立と古代大和湖の謎』」(祥伝社)
「生きる知恵 第9号『科学的根拠のある神武天皇伝説』」(季刊・東神会出版室)
posted by somo at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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