2011年02月15日

七石山・横穴古墳の写真 知られざる遺跡

七石山古墳(横浜市栄区)2-2.jpg

JR(旧国鉄)根岸線の延伸路線上の工事で発見された遺跡。

七石山(しちこくやま)から発掘された墳墓と、発掘物から、それは、7〜8世紀(西暦601年〜800年)の、地域有力者層、有力農民層などの墳墓地だろう、と考えられている。つまり、時代的には、古墳時代の終期から、奈良時代、といったところ、ということだ。

工事過程の昭和42年(1967年)、「本郷台」予定駅の至近に発見。

撮影は昭和43年、筆者。

この地域は、古都・鎌倉の出入り口で、今は鎌倉街道と呼ばれる、往古の鎌倉道(かまくらみち)の一つが通っていて、その沿道に当たる。そのせいか、この地域には、ここ以外にも、史跡・遺跡が、多くはないが、点在する。

しかし、ここが、山内荘(やまのうちのしょう=鎌倉の地名)の中心=本郷=に当たり、平安期、首藤氏なる者が支配していた、ということ以外は、この地域の、奈良期の有力者や長者、あるいは、名主的農民、土豪、豪族のことや、その支配構造などは、いずれも不詳のまま、といってもよい研究状況らしい。したがって、考古学的事実はともかく、この七石山横穴墓群の歴史的解釈の詳細について、未だ史実の確定は、為されてはいない、ということだろう。

七石山横穴墓群(しちこくやまおうけつぼぐん)は、神奈川県横浜市栄区小菅ヶ谷1-2丁目にある横穴墓群。11群140基以上あったいたち川流域横穴墓群の1支群である。100基以上あったとみられ、正確に調査されているだけで43基存在したが、現在は4基ほどが線路北側に残るにすぎない。

概要
1967年に根岸線敷設工事に伴い、横浜市郷土研究会会員の千貝幸之助(ちがいこうのすけ)により存在が通報され、1968年、1970年、1972年に発掘調査が実施された。

いたち川流域をはじめとする南関東の丘陵部辺縁には、掘削しやすい土質の傾斜が多く、横穴墓が多く築造された。特徴は近隣の地名をとって鍛冶ヶ谷式とよばれる。アーチ型の断面で、よく発達した玄室の奥に小型の奥室をもつ復室構造であること、羨道は存在しないか、またはかなり退化していることが挙げられる。人骨のほか、土師器須恵器類、勾玉管玉類、鉄剣鉄刀類、耳鐶などが出土している。年代観としては古墳時代終末期から奈良時代までに幅広く編年され、継起的に造営されたことを伺わせる。この地域の有力首長層、富裕農民層らの墳墓と考えられている。

参考文献
『横浜市戸塚区七石山横穴古墳群及滝ケ久保横穴古墳群の調査』七石山遺跡調査報告書1(横浜市文化財研究調査会、1969年)
『長谷久保遺跡・七石山横穴群』明星大学考古学研究部研究報告第1集(明星大学考古学研究部、1980年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年04月19日

源平池、七里ヶ浜、稲村ヶ崎

『七里ヶ浜の哀歌』

古都・鎌倉の史跡を、適当に見て歩いたことがあった。記録は、昔のばか○○○カメラで撮った、露出過多の白黒写真と、史跡ガイドブックを基にして書いたメモを、書き改めたものだけ。

ただし、史跡や景観の有り様は、昭和43年4月末のものだ。



75per-gennpei-inamura.JPG源平池

鶴ヶ岡八幡宮の境内に、源平池というのがある。源頼朝の妻・北条政子が、大庭景義に命じて掘らせたものという。

東西に広がったこの池の、東側には、源氏を意味する白蓮を植え、西側には平氏を意味する紅蓮を植えて、源氏の繁栄と、平氏の滅亡を祈ったと言われる。池の中の島には、旗上弁天が祭られている。





七里ヶ浜

明治43年1月、逗子開成中学校のボートが、七里ヶ浜沖で転覆、少年12名が溺死するという悲劇が起きた。発見された遺体の中でも、ひとしお人々の涙を誘ったのは、小学生の弟を保護するかのように、しっかりと胸に抱きかかえた兄の姿であった。

「真白き富士の嶺」の歌(「七里ヶ浜の哀歌」)は、当時の鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教員・三角錫子が、アメリカの曲に、この悲劇を作詞したもの。

稲村ヶ崎

元弘3年夏、関東の大軍を率いた新田義貞の中核軍が進攻。鎌倉中心部へ抜ける極楽寺坂切り通しを含めたこの周辺では、防戦する北条方の抵抗が激しく、新田勢は、ここを容易に突破できなかった。

しかし、干潮時、これを利用した新田勢は、稲村ヶ崎の海底を迂回して北条方を奇襲・粉砕、若宮大路を直進し、鎌倉幕府に乱入した。この時すでに、近くの東勝寺に退いていた北条高時は、一族郎党ともども自刃、滅亡した。剛勇・鎌倉武士の悲壮な最期を象徴するかのように、市中は北条方将兵の、累々たる遺体に満ち、埋もれていた。

新田義貞が、海中に、黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈ると、海水が引き云々の伝説が知られている。この伝説を歌われた明治天皇の御製碑と、逗子開成中ボート遭難の碑および石像が、この稲村ヶ崎にある。



shichiri-inamura.png
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2007年04月12日

古戦場 山崎・深沢

『鎌倉』

古都・鎌倉の史跡を、適当に見て歩いたことがあった。記録は、昔のばか○○○カメラで撮った、露出過多の白黒写真と、史跡ガイドブックを基にして書いたメモを、書き改めたものだけ。

ただし、史跡や景観の有り様は、昭和43年4月末のものだ。



深沢方面へ行って、山崎天神

ここは、暦応年間(1340年)の頃、夢窓疎石が、京の北野社を勧請したと伝える。
w-yamazakitenjin.JPGw-yamazakiyokoanakofungun2.JPG
鎌倉幕府滅亡の折、新田義貞の侵攻を迎撃するための、幕府・北条方の砦あとも見えると言う。

近くに、山崎横穴古墳群があったらしいが、この時、すでに宅地造成のため、そのほとんどが崩壊していた。左が山崎天神、右が山崎横穴古墳群の一部残存。


洲崎古戦場

関東の大軍を率いた新田義貞が、鎌倉に討ち入った時、このあたり一帯で、北条方との間で激戦が展開された。
w-suzakikosenjyou.JPG
幕府最後の執権・赤橋守時勢は、奮戦空しく敗れ去り、守時は自刃。

江の島へ通じる道で、当時の国鉄大船工場も近い。大船・江の島間に建設中の、モノレールの鉄柱が、何か不釣合いだ。




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ラベル:山崎天神 洲崎
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2007年04月06日

玉縄の戦国史跡

『鎌倉』

古都・鎌倉の史跡を、適当に見て歩いたことがあった。記録は、昔のばか○○○カメラで撮った、露出過多の白黒写真と、史跡ガイドブックを基にして書いたメモだけだ。その一部を載せてみる。ただし、史跡や景観の有り様は、39年前のものだ。


大永6年(1526年)、安房の里見義弘が鎌倉を攻撃。

北条氏時は、この攻撃を玉縄城で食い止め、里見勢を退散させた。だが、柏尾川で防戦に努めた、味方の甘糟氏以下、35人が討死。

敵味方の別なく、勇戦をたたえ、討死した将兵の霊を、ここに葬った。後世、ここを、玉縄首塚という。


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玉縄城は、北条早雲が築いた。永正9年(1512年)のこと。代々、小田原北条氏の堅城だった。初代城主は、早雲の次男・氏時。2代目城主の綱成は武勇抜群で、ここへ攻めかかった上杉謙信勢の鋭鋒を退けた。

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築城以来、無敗を誇った玉縄城。しかし、天正17年(1590年)、秀吉の小田原攻めの際、ここを死守せんとする4代目城主・氏勝の信念も空しく、小田原城降伏の知らせを得た周囲の勧めによって、ついに開城した。

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ラベル:鎌倉 玉縄 史跡
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