2013年12月24日

濃姫夢幻4−信長メモ10 「濃姫」名の初出

信長の正妻、濃姫は、その実像・実態が、在るか無しかの資料を強引・飛躍的に解釈するとか、多様な想像的解釈をするとか、が、盛んに行われてはいるものの、相変わらず謎に包まれたままで、史学的研究上は、何も進展がないようだ。

それらは、今までのメモに記したが、ふと疑問に思ったことがある。

その疑問とは、いま、誰もが、便宜上、とりあえずは使う、通称、濃姫、という名を、いつ、誰が、最初に使い始めたのか、つまり、初出資料は何か、ということ。

調べてみると、わかった。

それが、江戸時代に成立した、『武将感状記』、『絵本太閤記』だということが。

『武将感状記』
尾張の国主、織田上総介信長は、美濃の国主、斎藤山城守道三と、地を争いて相戦へども、常に克たず。信長、これを憂へて、道三の君臣を離すべき謀をぞ巡らされける。先づ、両老に就いて使者を遣はし、我は道三の敵にあらず、道三の濃姫を我に許されば、嫁娶を調えて旗下に属し

『絵本太閤記』
信長、道三が女を娶り、因を結ぶと雖も、終には美濃国を斬取るべき所存有りけるが、信長、一計を生じ、毎夜、道三が女、濃姫が熟睡を伺ひ、審に起きて出、暁に至つて歸る事一月餘

『武将感状記』は1716年刊、『絵本太閤記』の第一編は、1797年刊、これを比較すれば、80年ものあとに、『絵本太閤記』が出ているので、、『絵本太閤記』は、先行の『武将感状記』を、資料として参照している、との推測が働く。であれば、「濃姫」名の初出が、1716年刊の『武将感状記』だろう、ぐらいは言えるだろう。

では、『武将感状記』が、当時の、何の史料を基に、信長正妻の名を、濃姫、と記したのだろうか。独自の創作、なのだろうか。

それは、わからない。

何にしても、「濃姫」名の、初出史料が気になっていたのだったが、とりあえず、筆者的には判明した、ということである。
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2011年03月19日

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」は駄作2

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の駄作性。

「戦国の男ども」が、自家存続と覇権追求に命をかけている社会状況の中で、その統制下にある、「戦国の女ども」が、反戦平和・「嫌戦」を、声高に叫ぶといった、見せ方。

リアリティ感の無さは無論、何の面白味も無いドラマになっている。

戦国乱世という時代背景・社会状況は、単に、刺身のツマになっているだけで、ほとんど無意味。

時代物・歴史物の道具立てで、現代劇を見せているに過ぎない。

こんなものが大河ドラマなどとは、つまり、シナリオライター、監督、プロデューサー等、主要製作スタッフの劣化が、露呈してしまった、ということを意味する。

要するに能力の無さ。それは明らかである。

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2011年03月02日

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」は駄作

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」

第8回の柴田勝家の描き方、見せ方、あの急変ぶりは、どういうことか。いくらなんでも、おかしいのではないか。

過剰コミカルなアホに描き、その数分後、剛勇・戦国武士に描いてみせる。お笑いの寸劇ではないのである。

そして、最悪は秀吉の描き方、見せ方。

これまた、人間性を、アホ尽くしに描いて見せ続ける。

あれでは、秀吉が、戦国時代、なぜ全国諸大名を制圧して天下を統一するという、史上まれに見る大事業を成し遂げ得たのか、全くわからないではないか。

脚本家、又は制作関係は、日本史、戦国史を、知らないのではないか? あるいは、彼らは、自分たちの仕事でありながら、時代物・歴史物の作り方の、基礎を知らないいのではないか?

江を中心とする女性たちが主役だから、女性たちを引き立てるため、他を落とす、という手法は当然有り得るのかもしれない。しかし、いくらなんでも限度があろう。なぜか?

いくらなんでも限度がある。そのわけは、一方に、視聴者が居るからだ。歴史の常識を知り、大河ドラマを何年も見続けている、当たり前の視聴者たちが存在するからだ。

で、浅井をアザイ、というのは、なぜだろうか。アサイではないのか。
山内容堂は、ヤマノウチ容堂のはずだが、ヤマウチと言っていた。
もっと昔もあった。護良親王は、モリナガ親王のはずだが、モリヨシ親王と言っていた。

なぜ、常識と違う読み方をするのか、NHKの真意がわからない。

最新の歴史研究の成果を反映、とかいうのなら、なぜ、柴田や秀吉を、アホバカに描いて見せるのか? 最新の歴史研究では、柴田や秀吉は、アホバカと判明したのだろうか。
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2011年01月07日

大河「江〜姫たちの戦国〜」に期待するが。。。

大河「江〜姫たちの戦国〜」に期待するが。。。

今年のNHK大河ドラマは、「江〜姫たちの戦国〜」だという。織田信長の妹・市と、近江の戦国大名・浅井長政の間に生まれた3人娘の三女、江。女性を主人公にした大河ドラマ。信長の死闘から、秀吉の継承戦を経て、家康による乱世終結戦という、非常にダイナミックな時代が背景だ。

web用、戦国三傑の顔イラスト.JPG戦国の女性を主人公に、女性陣を中心に、という視点の置き方は、ドラマのセールスポイントによるものだから、別段言うこともない。

だが、期待するからこそ、テレビ局、というか、制作サイドに、注意してもらいたいことがある。

A、戦国乱世の時代考証は、しっかりやってほしい。
B,時代の制約を受ける人々(女性は無論)を描いてほしい。つまり、乱世・争乱の中の人物(女性)像を描いてほしいのだ。
1、人物(女性)像を、乱世・争乱と切り離して単独に描けば落第だ。つまり、争乱(戦闘・合戦)を描き、その中での人物(女性)像を描かなくては、時代背景の設定が、何の意味も持たないということだ。
2、学芸会のような、チャチな合戦を映したり、合戦絵巻などを映すのみで合戦場面を処理してしまうなど、そんな安易なことはしないでほしい。

合戦場面は、金もかかり、撮影や描き方も面倒だから敬遠して、会話場面ばかりにしたい制作者もいることだろう。そうは表向き言えないから、『戦いよりも、「人物」を中心に描いているのだ』などと強弁したり、詭弁を弄したりする向きもあるようだが。

でも、要望を言っても、もう遅いか。先ずは見てみて、そうなっているかどうかで、見続けるかどうか、判断しよう。
 
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2010年10月09日

真田幸村、家康本陣を二度まで斬り崩す

真田幸村、戦国武士道の精華



真田幸村と毛利勝永、どちらが、より活躍したか?と、一部では、幸村の活躍に、疑問を投げかける向きもある。

騎馬疾駆画[6].jpg


以下、この疑問を拙考する。

真田幸村「天王寺口の合戦」小考

<前提>
豊臣方の作戦構想は、真田幸村の、徳川家康討ち取りを目指す提言を、大野治長が容れたもので、明石守重隊が天王寺口に着陣し次第、合図とともに、真田隊はじめ、諸部隊が一斉に撃って出る。家康直統勢が迎撃防戦に浮き足立ったところへ、明石隊が迂回、側面から家康本陣を奇襲・突入、という内容だったらしい。

だが、徳川方・最前線の本多忠朝隊が功を焦って突出、これに毛利勝永隊が、たまらず応戦したため、明石隊着陣前に毛利隊が進撃開始という、いきなり予想外の事態となった。このため、真田隊も、既定の作戦を放棄、もはやこれまでとばかり、猛攻に出た。豊臣方の、家康討ち取り・形勢一挙逆転という、乾坤一擲の必勝作戦は、こうして一瞬のうちに崩れ去った。

ここに、国内戦史上最大の、いわゆる天王寺口の合戦が展開される。

真田隊は、松平忠直隊を撃破、さらには家康本陣を二度まで斬り崩し、家康を、あわやのところまで追い詰めるも、三度目の突撃の際、全員が玉砕し果てた。

夏の陣、5月7日布陣略図.JPGしかし、真田隊と毛利隊の戦闘経過、および戦果の様相には、それぞれ違いがあるようだ。そのため、一部では、真田よりも毛利のほうが活躍した、とも言われるのだが、その原因の一つには、下記の諸条件の存在があると思われる。両部隊の直面する条件に違いがあるので、比較はできにくく、どちらがどう、とは言いがたいものがある、というのが妥当なところか。

<諸条件>
(一)真田隊の前には、徳川方の、越前兵・松平忠直の大軍。

(ニ)毛利隊の前には、徳川方・小大名の、分立する小部隊が群集。

毛利隊の前の、小大名の諸部隊群が、本多忠朝の寄騎として組み込まれた、一団のものだとしても、大将・忠朝による指揮・威令の、配下諸大名部隊への浸透・徹底度は弱くなり、結局は「各自戦闘」となりがちだろう。

(三)そのためか、毛利隊は、諸大名の小部隊を相次ぎ撃砕し、大将首もあげつつ、家康本陣へ向けて進撃する(最終的には、戦況を見極めたのか、毛利勝永は戦線を離脱、防壁無き大坂城に撤収する)。

(四)一方、真田隊は、統一指揮下にある大軍・松平隊15000に激突、激闘突破し、家康本陣目指して真一文字に突進する。

(五)乱戦を斬り裂き、真田隊は、さらに家康直統の15000に突入、家康本陣を二度まで斬り崩す。
(ただし、家康直統の15000の前線兵力は、毛利隊迎撃にも出動していたはず)

(六)しかし、このあと、松平忠直の大軍が頽勢を挽回、真田隊めがけて逆襲に押し寄せ、あわせて、下高野街道沿いの徳川方諸部隊も、疲弊困憊した真田隊に殺到する。

<結論>
<前提>から<諸条件>までを勘案すれば、徳川諸部隊の性質と動向、豊臣方諸部隊内の、指揮・威令の徹底度のありかた等が、ほの見えてこないでもない。つまり、戦闘の進展と戦果の現れ方に、これらが影響していることは間違いないだろう。真田・毛利両部隊の戦闘と戦果の様相、その「違い」の原因が、このあたりに潜んでいる、とまでは考えられるのだ。そうなると、真田・毛利両部隊は、異なった環境と条件を負っているため、どちらが、より優れた活躍をしたかなどといった、比較は困難だし、いわんや、その判定など、あまり意味のあることとも思えない。

ただし、この合戦に参陣した徳川方の古文書・古記録の中には、敵でありながら、真田隊の活躍を特記するものが目立つ。中には、最高級の賛辞、「真田日本一の兵(つわもの)」とまで激賞する記録もあるほどだ。つまり、真田隊の戦闘が、さほどに徳川方を仰天・瞠目させ、強烈な印象を焼き付けるほどのものだったことは、史料上、間違いない、ということだ。さらに、この合戦から400年余、真田幸村は、史実・伝説を混じえながら、一貫して国民の憧れの的となってきた。これも間違いのないことだ。

大規模な混戦乱闘の修羅場となったため、敵味方諸部隊の「時系的動線」が不詳ではあるが、考察の基本素材は、上述したあたりにあるのだろう。

なお、幸村の一子・大助については、次のような話が伝わっている。

大助は、大坂落城時、父命によって、城内、豊臣秀頼のそば近くに、護衛として侍していた。が、「貴殿は豊臣譜代にあらず。よって、お供の必要はなし。早々に落ち延びられよ」との重臣の忠告を受けたものの、大助は、「父より、最期まで秀頼様のお供をするよう、言い付かっております」と応えるのみであった。そして、秀頼自刃の報を受けると、腹十文字にかっさばいて、秀頼に殉じた。

真田大助幸昌、このとき、13歳とも、14歳とも、あるいは16歳ともいう。

あの父にして、この子あり。乱世の終結を告げる最後の決戦に、父子一体となって真っ赤な花を咲かせ、そして一瞬のうちに散った、戦国武士道の精華であった。
posted by somo at 02:14| 戦国メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月09日

真田幸村 哀切の死闘

真田幸村、討死の覚悟

下の古文書2通は、幸村自筆の書状で、日付と内容から、大坂冬の陣と夏の陣の間の時期、慶長20年の2月・3月、のものと判断される。


父子事御安事、作兵衛方迄恩尋尤候、我等籠城之上ハ、必死に相極候間、此世にて面談ハ有之間敷候、何事もすへこと心に不叶き候共、御見捨無之やうに頼入候、委者惣右可申候、謹言
  ニ月十日     真左衛門佐(花押)
   石合十蔵殿


この、石合十蔵への書中で幸村は、『自分は、嫡男・大助幸昌とともに、城を枕にしての討死を決めているので、もはや生きてお会いすることはできません』と、武士の覚悟を述べ、さらに、それゆえに、(石合十蔵に)嫁いだ(自身の長女)「すえ」について、『ふつつか者だが、すえを、よろしくお願いします』と、大坂城内、休戦の陣中から、おのが長女の行く末を、信州・石合十蔵(長女の夫)に依頼している。


尚々、別帋ニ可申入候へとも、指儀無之候、又御使如存候、少用取乱申候、早々如此候、何も追而具申入候、以上

 遠路預御使札候、其元相替儀無之由、具承、致満足候、爰元おゐても無事ニ候、可御心安候、我等身上之儀、殿様御懇比も大かたの事ニはハ無之候へとも、萬気遣のみニて御座候、一日一日とくらし申候、面上ニならて委不得申候間、中々書中不具候、様子御使可申候、当年中も静ニ御座候者、何とそ仕、以面申承度存候、御床敷事山々ニて候、さためなき浮世ニて候へ者、一日さきハ不知こと候、我々事なとハ浮世にあるものとハおほしめし候ましく候、恐々謹言
  三月拾日     真左衛門佐
   小壱岐様
   同主膳殿       信繁(花押)
        御報


小山田茂誠と、息・小山田之知あての返書。茂誠は、幸村の義兄。
石合十蔵への書状から、1ヵ月後と推定される。さらにこれより1ヵ月半後には、夏の陣の開戦となる時期である。

ここから推測できることは、大坂城・豊臣家の当主、秀頼は、今こそ零落の一浪人とはいえ、真田の高い武名を負う幸村に期待するところ多く、好意的であること。また、それだけに豊臣家直臣らの嫉妬や、真田一族の多くが徳川方であること、などが主因なのか、幸村は、(自分の豊臣家への忠誠心や、徳川打倒の信念が周囲に理解されず)、(大坂城内での生活は)『万事に気を遣うばかりの環境』と、嘆いていることなどだ。

同時にここでも幸村は、『今後、平穏に推移するなら、ぜひにお会いして詳しく話したいが』、『定めなき浮世にて候へば、一日先のことはわかりません』『私ら親子のことなど、もはや、この世に在る者とはお思いにならないでください』と、親類縁者への切なる想い、さらには、討死を決意している哀しくも雄々しい胸の内をほのめかしている。

この二つの古文書(書状)から、幸村が討死を覚悟していたこと、すでに死処を定めていたことなどが、実証されている。

冬の陣・真田丸攻防戦で大活躍、徳川方を撃退したあとの休戦時、破格の条件で、徳川への引き抜き勧誘があったらしいが、幸村は、一寸たりとも、なびくことはなかったらしい。

真田家の来し方への想い、関ヶ原前哨の上田戦で、徳川の大軍を痛撃・翻弄しながらも、戦後、配所の九度山で、不遇の中に逝った父・昌幸への想い。

そして、奔騰すべき青年期を、あたら草むす九度山で、困窮・絶望の極みに費消した己への想い。

これら幾重もの想いを込め、戦国武士の生き様・死に様を体現すべき自分にとって、それを為す好機は、豊臣・徳川の、最後の決戦の今、今をおいて無し!

我が真田の御家は、兄・信之が継承済み、心残りなど、一寸たりとも無し。戦いまくり、もののふとして散華するのみ!

この絶好の機会、この世で再び無し。戦国乱世、最後の戦い也。己の生きた証しを世に刻印する、最後にして唯一の絶好機なり!!

幸村の、このころの心象を思うものの、その深甚なる想いを描き出すのは至難である。

知将猛将・真田幸村、もって瞑すべし、と言うしかない。
posted by somo at 21:04| 戦国メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

真田幸村、奮戦の謎

真田幸村、「絶望からの蘇生」の謎
緑濃く、草深い土地。

無腰同然の一党がここへ来たときは、まだまだ意気軒高で、廃屋となっていた百姓家を、力を合わせて普請し、何とか住めるようにしていたし、近辺にも小屋をいくつか建てていた。だから、今でも雨露をしのぐには、ことさら困ってはいない。

だが、せめてもの情けで、猫の額ほどの耕作地を持つことは許されていたものの、長年を通して、銭と糧食は慢性的に欠乏していた。そして、いつしか、微かな望みすら失われていった。

失意の父は、すでにない。

今までの、気の遠くなるような年月、この土地で、いったい何をしてきたのだろうか。30歳代の、壮んな歳月だったのに、十幾年、来る日も来る日も・・・・・・。

かつての壮健さも、当然のごとく失われて久しい。このまま朽ち果ててしまうのか。

真田幸村の九度山配流時代の生活を明らかにできる、確かな史料はほとんど残っていない。だが、困窮、疲弊、絶望を、国許の縁者に訴える、侘びしき書状はある。

我々なとも去年より俄ニとしより、事の外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、ひけなともくろきハあまり無之候
(慶長年間、2月8日付、小山田茂誠宛書状<岡本文書>

「私なども去年より、急に年をとり、ことのほか病気になりました。歯も抜けました。ひげなども黒いところはあまりありません」(「真田幸村」山村竜也)

満14年間、つまり、30歳代から40歳代という、人生の最盛期を全面的に潰されてしまい、幸村は朽ち果てる寸前だったのだろう。

大坂決起が、心身を復活させたことは推測できるのだが、とはいえ、不思議なことがあって、筆者などは理解できない。

有能を実地に移したのは、父・昌幸のほうで、幸村については、後付けの話が多く、リアルタイムで、幸村の有能さが認められる記録に乏しい。つまり、実戦経験がほとんど無いに等しいのだ。史学的に確認できるのは、わずかに関ヶ原合戦時、父の下知のもとで戦った上田戦ぐらい。

30歳代に入って、父と共にこれから、というときに、流人生活に入ってしまったこと、天下が定まって、戦がなくなってしまったこと、これらが原因で、実戦の機会が失われてしまった、ということなのだろう。

挙句の果てに、最盛期を無為にした14年に及ぶ流人生活での、心身の弛緩、衰微、老衰の絶望的状況。

この幸村と、その直後の大坂戦陣で、天下を瞠目させた、知略、勇戦、鬼神の如き名将・幸村、日本一のつわものと、敵をして絶賛させた幸村と、いったい、どうつながるのか。

想像や伝説ではなく、このあたりを理解させるような史的研究はないものだろうか。
ラベル:真田幸村
posted by somo at 12:54| 戦国メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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